突き抜けるほど爽やかな笑顔が目の前にありました。身長186センチ、シャツの上からでもわかる鍛え抜かれた体――。その人は、気配りのできる人と評判です。しかし、その彼、岡部祐介さんは音のある世界を知りません。
秋篠宮佳子さまが一般財団法人全日本ろうあ連盟(東京・新宿)の非常勤嘱託職員に就任されましたが、国内では、ろう者(=聴覚障がい者)への理解と認知度は高いとはいえません。ろう者の人口は、三菱UFJリサーチ&コンサルティングの調査によれば、約29万7000人(2016年時点)、つまり日本国内で1000人に3人が聴覚に何らかの障がいを抱えていることになります。
アジアのなかでも日本は比較的、ろう者に理解があるといわれるものの、手話言語条令(手話に対する理解を深め、啓蒙を行なう)が成立した自治体は、全日本ろうあ連盟によれば31道府県、15区、296市、62町、2村計406自治体にとどまっています(5月17日現在)。
ライフネット生命に勤務する岡部さんには、会社員以外に、もう一つの顔があります。16年にブルガリアで開催された「第3回世界ろう者陸上競技選手権大会」の4×400メートルリレーで日本人初の銀メダル保持者であり、来年開催されるデフリンピックの陸上日本代表候補でもあります。デフリンピックとは、オリンピック、パラリンピックと並ぶ、世界規模で開催される聴覚障がい者のための総合スポーツの祭典です。岡部さんは17年に出場したデフリンピックでは4×400メートルリレーで5位に入賞した“世界の岡部”です。
岡部さんの耳が聞こえないことに気がついたのは、母親でした。「何かの間違いか、一時的なことかもしれない」と一縷の望みをかけて訪れた病院で、「先天性両側感音性難聴」と診断が下りました。先天性感音性難聴とは、聞こえの個人差はありますが、耳の一番奥にある神経に音を伝える役割の内耳に、なんらかの障がいが発生して起こる聴覚障がいです。
両親は「手術をすれば治りますか? 治療にはどんな方法がありますか? 祐介が治るのなら、なんでもします。どんなに高額でもお金をなんとしてでも集めて治療を受けさせたい」と、すがる思いでドクターに聞くと、「お子さまは重度の難聴です。残念ながら、原因も不明で治療方法は確立されていません。恐らく、話すこともできないでしょう」と、辛い現実を静かに伝えました。
それを聞いた途端、母親は「私の片耳だけでも祐介にやってほしい! 祐介と交換してやってほしい」と泣き崩れました。「妊娠中の何がだめだったのか?」と自分を責めてばかりの母親に、夫である父親は、妻を一人にさせないことに気を付ける毎日が、その日から始まりました。
陸上競技との出会い
岡部さんがこの世に音があることを知ったのは、3歳の時です。岡部さんを“耳のハンデがある普通の子”として育てることに決めた両親は、幼稚園に入園させたことをきっかけに補聴器をつけさせました。補聴器をつけて初めて、岡部さんは、この世に音が存在することを知りました。といっても飛行機のエンジン(120デシベル)程度の音が遠くかすかに存在することがわかっただけで、言葉を判別することも、音の高低や強さ、リズム、抑揚も一切わかりません。
子供たちは時として残酷です。当時の補聴器は大きく、おしゃれとはほど遠いもので、補聴器をつけた岡部さんを見て、「宇宙人」「ロボット」と、はやし立てました。
ろう者は唇の動きで言葉を読み取る読唇術だけではなく、顔の筋肉の繊細な表情まで読み取って、総合的に言葉を理解することに努めます。それなのに、「どうせ聞こえないから」と適当にあしらわれたり、でたらめなことを話される経験を何度も味わいました。
ところで、手話と口語の日本語とは意味が異なるものも多く、文法も違います。
「ろう者の私たちは、日本語が苦手で苦労しています。音が聞こえない中で日本語を覚えていったので、『てにをは』を間違ったり、あいまいや遠回しな表現、二重否定は勘違いしやすいです。ストレートで簡潔な文章はありがたいですね。自分ではそのつもりはなくても、簡潔でそっけない文章だと感じさせてしまう場合があります。そんな場合は、教えていただきたいです。常により良いコミュニケーションをとれるように、努力は怠らないつもりです」(岡部さん)
岡部さんは数え切れないほどのいじめや偏見があったことで、引っ込み思案な少年になってしまいました。小学校、中学校は普通学校に進学しましたが、中学校2年時に秋田の特別支援学校(当時:ろう学校)に転校して、陸上部に入部します。
陸上部のコーチは、指導の厳しさとハードな練習メニューで有名でした。コーチは、女子生徒にも負ける岡部さんだけを毎日怒るため、岡部さんは父親に「部活を辞めさせてほしい」と頼み込みました。しかし、両親は「続けていれば、いつかきっといいことがある。ビリでもいいじゃないか。一生懸命やり続けることが大切だ」と励まし続けました。
辛い毎日の中で、両親も姉も祖父母も深い愛情を持って接してくれたことは救いでした。姉は家族の中で誰よりも早く手話を覚え、家族とのコミュニケーションの橋渡しを、祖母は、ことあるごとに読書の重要性を教えました。
そんな家族の愛情に包まれるうち、岡部さんは覚悟を決めました。本来の真面目で努力家の気性が相まって、何を言われてもめげずにトレーニングに打ち込むうち、少しずつ体力もつき、走る速度も上がってきました。
そして迎えたのが入部1年後の東北地区ろう学校体育大会でした。毎年7月に東北のろう学校の在校生が集まって体育大会を行う大規模なイベントです。中3になっていた岡部さんは200mに出場し、大会新記録で優勝を果たしたのです。
今までの鬼の形相はどこへやら、コーチは握手を求めて、ものすごく喜んでくれたのです。鬼コーチが岡部さんに初めて素顔を見せた瞬間でした。
コーチは「秋田の岡部」が、やがて「世界の岡部」になることを誰よりも早く見抜いていたのです。身長も高く、足の長い岡部さんを見て、ダイヤの原石であることに気がつかず、何に対しても消極的な岡部さんを歯がゆく思っていたのです。厳しさだけではなく、愛情もある人でした。
優勝したことは、岡部さんに生き方とコミュニケーションの取り方を大きく変えることにもなりました。
「頑張ればきっといいことがあるというのは、本当だったんだと心の底から思いました。ビリであっても、努力すれば、努力した分、どんなに時間がかかっても、自分を成長させてくれるのだと思いました。努力して努力して、それでもだめなら、また努力する。努力することを決して諦めてはいけない。負けず嫌いと言うより、何があっても努力することを諦めない大切さを実感した生涯忘れることのできない出来事となりました」(岡部さん)
海外遠征も全額自己負担
人との関わりも積極的に行えるようになりました。例えば、車がクラクションを鳴らしても岡部さんには、その音が届きません。「聞こえない」とジェスチャーで伝えても、「ふてぶてしい」と思われ、捨てゼリフを吐かれた経験は限りなくあったと言います。
補聴器をつけていると、聴者にとっては、自分たちと同じように聞こえるのだろうと誤解してしまいます。特に岡部さんは補聴器をつけても、飛行機のエンジンレベルなら音が存在することがわかる程度です。嫌な思いをするだけだと、今では補聴器もつけないようになりました。聞こえないことで数々の辛い経験をしてきた岡部さんは、いいます。
「『どうせ、わかってもらえない』と決めつけて、初対面の人に、聞こえない、ということも言えませんでした。でも、わかってもらえなくてもいい。まずは筆談で『聞こえません』と伝えていこうと思いました。そんなことさえも一歩踏み出すには、当時の私には大変な勇気がいったのです」(岡部さん)
ろう者の大学進学も大変です。ITを学びたいと思った岡部さんに門戸を開いたのは、国立筑波技術大学産業技術学部です。この大学は2005年に茨城県つくば市に設立された日本初の視覚障がい者と聴覚障がい者を入学条件にした国立大学法人です。残念なことに、他大学は、ろう者がITを学ぶ環境が整わず、唯一、聴こえない人を受け入れてくれる大学でした。
入学早々、08年6月に開催された「第5回日本聴覚障害者陸上競技選手権大会」で男子200mに出場し、2位に入賞、早くも頭角を現します。11年の第8回大会においても、400m優勝、4×400mリレー優勝を果たし、卒業後の2014年に開催された「第14回全国障害者スポーツ大会」では、100 mと200 mの2冠を達成し、国内の大会で次々に好成績を残します。“東北の岡部”は、“日本の岡部”へとステップアップを果たしました。
大学卒業後は、学んだことを活かせる大手電機メーカーに就職をしましたが、これには切実な問題がありました。
「ろう者には、聴者に劣らぬスポーツの才能がある人も大勢います。しかし、あまり知られていませんが、ろう者がスポーツを続けるための支援制度は、国をはじめ行政などにはありません。海外遠征でも、関連費用も含め、全額自己負担で参加するしかないのです。
私の両親が負担した費用の累積額は、新築の一軒家を建てられる費用に匹敵すると思います。両親には申し訳なく思っていますが、『祐介のお陰でいろんなところに行ける』と言ってくれるのです。
経済的なことから断念する人を何人もみてきました。素晴らしい才能を持つ次世代の選手も大勢います。才能の芽を摘むことのないように、一人でも多くの方にアスリートろう者のことを知っていただき、応援していただければと願っています」
会社員を続ける傍ら、横浜市スポーツ医科学センターで「特定スポーツ支援選手」に選出される生活が始まりました。同センターでは指導員や職員、管理栄養士がチームを組んで、岡部さんの体力測定を行い、走るフォーム、栄養状態などを徹底的に科学分析しました。
“世界の岡部”へ
こうした甲斐があって、ついに“日本の岡部”が“世界の岡部”となる日がきました。13年、カナダで「トロント世界ろう陸上競技選手権」の4×400mリレーの日本代表に選ばれ、日本史上初の銅メダルに輝きました。
さらに快進撃は続きます。15年には、「第 8 回アジア太平洋ろう者競技大会」で金メダルを受賞し、ついに世界の頂点に立ったのです。16年にブルガリアで開催された「世界ろう者陸上競技選手権」でも、日本史上初の銀メダルに輝きました。
また、13年の記録が評価され、デフリンピックの日本代表に選ばれます。デフリンピックとは、4年に1度開催される、ろう者のオリンピックです。岡部さんが初出場した13年はブルガリアで開催され、70カ国2879人が出場、400メートルでは準決勝に進出し、4×400mのリレーは6位になりました。17年に臨んだトルコで開催されたデフリンピックでは(世界100か国、3148人の選手が参加)、4×400mリレーで5位に入賞を果たしたのです。
来年22年5月1日~15日にブラジルで開催される予定のデフリンピックでも、岡部さんは連続3回目の出場を目指しています。
ところで、岡部さんの自己ベストは200mでは22秒79、400mでは50秒39です。しかし、どんなに努力しても、耳の聞こえる選手にはかないません。ろう者にはスタートダッシュの音が聞こえず、どうしてもスタートで出遅れてしまうからです。
ではスタートに合わせて光るシグナルも開発されていますが、非常に高額のため、すべての競技で使用されるわけでありません。このため、ろう者の陸上競技では、スタート時に黄色い旗を振る審判の様子を見た別の審判が選手の肩を叩き、それを合図に走り出すこともあります。
岡部さんは耳にハンデはありますが、心身共に健康な一人の男性です。岡部さんの勤務先にはろう者の採用実績があり、理解ある上司や先輩にも恵まれました。競技生活を続けるためにもこの会社で骨を埋めたいと思っていましたが、転勤となりました。残業が多く、アスリート雇用ではない岡部さんはトレーニングとの両立が困難になってきたのです。会社員を続けるか、スポンサーを見付けて競技に専念するか、岡部さんの新たな苦悩が始まりました。
(文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表)
●岡部祐介(おかべゆうすけ)さん
1987年(昭和62年)11月25日生まれ、秋田県由利本荘市出身。筑波技術大学産業技術学部を卒業。家族は両親と姉と祖母と猫(茶々丸)。
●鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表
出版社勤務後、出産を機に専業主婦に。10年間のブランク後、保険会社のカスタマーサービス職員になるも、両足のケガを機に退職。業界紙の記者に転職。その後、保険ジャーナリスト・ファイナンシャルプランナーとして独立。両親の遠距離介護をきっかけに(社)介護相続コンシェルジュ協会を設立。企業の従業員の生活や人生にかかるセミナーや相談業務を担当。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などでも活躍。
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