先週の『チコちゃんに叱られる!』(NHK)は、久々に金曜夜に無事放送された。それまでの2週は本放送が休止続きだったからな……。5月21日放送分のゲストは3回目の登場でオリジナルメンバーになった和田アキ子と、2回目の登場で準レギュラーになったウエンツ瑛士である。
岡村隆史、ビル1棟を所有しているはずが…「マンションを買ったことはない」
この日最初のテーマは「アパートとマンションって何が違うの?」という疑問。確かに、あまり真剣に考えたことがなかったな……。アパートに住んだ経験があるという和田の回答は以下だ。
「(アパートは)隣の声が聞こえる!」(和田)
確かに、「レオパレスの壁は隣人の話し声やテレビの音が聞こえる」なんて噂があったけれども。なんと、番組スタッフが同じ質問を不動産屋さんに尋ねに行っても、正解を出せた人は皆無だった。不動産屋さんでもわからないのか……。チコちゃんが発表した正解は「借りるのがアパート、買うのがマンション」だ。じゃあ、億ションでもアパートの可能性があるということ?
日本ではアパートもマンションもどちらも「1つの建物に複数の住まいが入っている集合住宅」という意味で使われるが、そもそもapartment(アパート)は「集合住宅」、mansion(マンション)は「大邸宅」を意味している。つまり、アメリカでマンションと言えば一軒家のことを指すのだ。日本では、「マンション>アパート」とグレードとして認識する人が多い。外国人の感覚からすると混乱してしまうだろうな。
ちなみに、日本ではマンションより先にアパートという言葉のほうが先に生まれたとのこと。この2語を区別して使うようになった理由は、日本の集合住宅の歴史を辿ればわかる。明治時代、大都市に人口が集中するようになり、横ではなく縦に階を重ねる集合住宅「アパート」が誕生した。日本で最初に作られたと言われるアパートは、1910(明治43)年に上野恩賜公園そばに建てられた「上野倶楽部」だ。5階建てで63室を構える木造アパートで、当時としては異例の高さだったという。それにしても、5階建てなのに木造という事実が驚きだ。下の階の住人は上階の生活音がかなりうるさかっただろうな……。この住居ができてから、アパートという言葉は広く一般的に使われ始めた。ただ、アパートは全国的にまだ少なかったという。
そして、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起こる。これによってたくさんの住宅がなくなり、住宅不足を解決するために「同潤会」という機関が発足する。同会は住宅不足の問題を解決するため、東京や横浜にバス・水道・水洗トイレなどの最新設備を備えたアパートを次々と建設した。かつて、表参道のシンボルだった「同潤会青山アパート」は、この時代に作られたアパートの1つだ。あのアパートは関東大震災をきっかけに建てられたものなのだ。
その後、日本中でアパートの建設ラッシュが起きたが、第二次世界大戦で再び多くの人が住む家を失うことに。戦後復興に向かう中で都心に人口が集中したため、住宅公団は住宅不足解消を目的に大規模な集合住宅「団地」の建設を始めた。そして、高度経済成長期には集合住宅がまるで1つの街のように立ち並ぶ“マンモス団地”が誕生。中でも、東京・高島平団地は倍率約2000倍の入居希望者が殺到するほど大人気だった。
こうした戦後の復興の流れの中、集合住宅の新しい仕組みが生まれる。それまでの集合住宅は大家さんに家賃を払って部屋を借りる「賃貸」がほとんどだったが、1953年に建物の中の部屋をそれぞれが購入して持ち主になる「分嬢」という仕組みが生まれたのだ。日本初の分譲住宅は、渋谷に建てられた「宮益坂アパート」。国民の平均年収が約34万円だった当時、1室の購入価格は80万~100万円に設定された。平均年収の約3倍である。しかし、当時はまだマンションという言葉がなかったため、「宮益坂アパート」は名前の通りアパートと名付けられた。マンションと名前のつく建物が登場するのはもう少し先の話である。
やがて、建物に豪華なイメージを持たせるため、高台を意味する「ハイツ(heights)」、共同住宅を意味する「コーポ(cooperative house)」、邸宅を意味する「レジデンス(residense)」など、様々な名前が集合住宅に付けられるように。ただ、そんな意味で用語を使っている人なんかいないだろうし、種類がたくさんあり過ぎてワケがわからない。
そして、次第にマンションという言葉も使われるようになる。日本で初めてマンションと名付けられた集合住宅は、新宿区「信濃町アジアマンション」だ。しかし、アパートとマンションの法的な違いは当時はまだはっきりしていなかった。
マンションの定義が明確になったきっかけは、マンションで起こる生活問題だ。賃貸住宅の場合、共用スペースの管理は大家さんが行うことが多い。一方、分譲集合住宅では大家さん不在のため共用スペースに関する問題が発生するのだ。廊下に私物の自転車を置かれ、住人の通行を妨げになったり。住人が通る玄関で立ち話をする人がいたり。これらの問題を誰が解決するのか? その解決策として、部屋の持ち主たちで管理組合を作るなど皆で共有スペースを管理する「区分所有法」が1962年に生まれた。そして、2000年には共有スペースの問題を専門家に相談できる「管理適正化法」ができた。そして、ようやく2000年に法律上のマンションの定義が定められる。「1棟に2人以上の所有者がいる分業集合住宅」がマンションということになったのだ。それ以外は全部、アパート。21年前に決まったのだから、かなり最近の話なんだな……。
VTR終了後、MCの岡村隆史と和田の間でこんなやり取りが行われた。
和田 「(マンションを)買ったことはある?」
岡村 「いや、ないです」
ちょっと待て。かつて、ニッポン放送『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』(2018年10月18日放送)で、「大阪に小さいビルを所有している」と白状していたじゃない! 2年半前の放送で、確かに岡村はこう言っている。
「小っちゃいやつ(ビル)なんですけど、芸能界であかんようになったときに……っていうようなことで」(岡村)
補足情報だが、ANNで岡村にビル所有の真偽を尋ねたのは和田アキ子のものまねをするMr.シャチホコだった。2年半越しのシンクロ具合が奇跡的だ。
この日2つ目のテーマは「なんで握り寿司の1人前は10個なの?」で、チコちゃんが発表した正解は「寿司絶滅の危機を乗り越えたから」だった。
詳しく教えてくれるのは、明治元年創業の江戸前寿司店4代目店主・安井弘さんである。曰く、「戦後まもなく、日本の寿司屋は絶滅した」らしい。しかし、昭和22年に「米1合で握り寿司10貫を出す」という方法で復活を果たした。
ここから、番組は『プロジェクトX~挑戦者たち~』(NHK)風の再現VTR、「チコジェクトX」に突入する。今回のタイトルは「すしのない国になるところだった ~握りずし復活物語~」で、ナレーション担当は言わずと知れた田口トモロヲである。
江戸時代の屋台で生まれた握り寿司は日本の食文化として発展し、戦前、東京の寿司店は3000軒を超えた。しかし、後に寿司は絶滅の危機を迎える。太平洋戦争が始まる昭和16年、寿司店の命とも言えるお米と魚が配給制になったのだ。さらに、魚の配給は減っていき、寿司のネタとして握る食材がなくなってしまう。それでも、寿司屋は「寿司文化を途切れさせまい」と奮闘! 彼らは、魚なしで野菜主体の「戦時ちらし」を作るようになっていた。
だが、その後も状況の悪化は止まらない。事実、安井さんの寿司店は昭和19年に1度閉店に追い込まれたそうだ。そして昭和20年、日本は終戦を迎えた。終戦後もお米や魚の配給制は続いたものの、しばらくして寿司店に衝撃的な出来事が起こる。「飲食営業緊急措置令」が発令されたのだ。限られた食料を国民に配給するため、一部許可された店舗以外の飲食店営業が禁止されたのだ。なんか、コロナ禍における飲食店への休業要請と状況が酷似しているな……。令和は、まるで戦後みたいだ。
営業許可された店に寿司店は含まれていなかった。つまり、日本から寿司が消滅したのだ。このとき立ち上がったのは銀座の寿司店店主で、寿司組合の中心人物でもあった八木輝昌という人物。彼が目を付けたのは、国民に配給される1合の配給米である。「家庭では寿司は握らない。ならば、我々があの米を使って寿司を握ったらどうか?」とひらめいたのだ。お客さんが持ってきた配給米を職人が握り、寿司にして提供するという方法だ。寿司を販売するのではなく、お客さんの米を寿司に加工して返すという考え方。言うなれば、寿司の委託加工である。これぞ、法の抜け道! 頭のいい人がいたものだ。
「寿司職人だけに“イカ”したアイデアだった」(田口トモロヲ)
田口の声で聞くと、ただのダジャレでさえ劇的に思えてくる。
八木たちは東京都知事・安井誠一郎に直談判に向かった。しかし、東京都からは「許可できない」「米は良くても魚はダメ」という返答が……。「配給に影響が出るので寿司屋にまで魚は回せない」が理由だった。しかし、八木は食い下がる。
「配給で規制されていないものがあるじゃないか!」(八木)
貝、海老、川魚、かんぴょう、しいたけ、卵など10種類のネタは加工賃40円があれば用意できるし、多少の儲けも出る。寿司店、そして寿司が生き残るギリギリの数が10貫だったのだ。結果、彼らの交渉は成功した。
「よく、“ひらめ”いたな」(安井都知事)
安井都知事は寿司の委託加工に許可を出した。当時の都知事は、小池百合子よりも明らかに粋だな。とにかく、これが「1人前=10貫」とされるきっかけだ。
昭和22年、寿司店は「持参米鮨委託加工」として営業を再開。結果、寿司を待ちに待っていたお客さんはお店に殺到した。店内は、文字通り“すし詰め”状態に! 振り返ると、今も当たり前のように寿司が食べられるのは当時の職人さんたちの奮闘のおかげなのだ。寿司文化を守っていただき、感謝しかない。
今回の「チコジェクトX」は感動の物語だった。本家『プロジェクトX』で扱ってほしいほどの案件。まだまだ、知られざる歴史はあるものだ。寿司1人前に対する認識が確実に変わった。我々が苦境に立たされる現代において、このVTRは大きなヒントになる気がする。
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